black short hair
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今日は祖母の家に泊まりだな…
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バイトもM-1も妹尾さんからのTELも、全てを蹴って飲み会に来たのは、しゃぶしゃぶ叙々苑でおごりだから。
【漫画】ネギま!の楽しみ方
言わずと知れた週間マガジン連載中のネギま!

赤松健はラブひなからのファンで、本当に可愛くてキャッチーな絵を描くと思う。はっきりいってこうやってブログで漫画のこと書いてるのもほとんど赤松健がきっかけだと言っていい。初めてのインターネットは赤松健公式サイトの掲示板だった。

ラブひなの連載終了後、高校生だった僕はドキドキしながら赤松健の新連載を待っていた。あぁどんなラブコメを描いてくれるだろうか。

そこでネギまだったわけだけど、まぁはっきりいってラブコメとして見るのは第一巻でもやめてしまった。主人公が10歳で、ヒロイン達が15歳っていうのはあまりにも感情移入するに難い。

当時のヒロイン5人の常識を飛び越えた、妹ヒロイン12人をさらに飛び越して、生徒31人っていうのはすごいアイディアというか、まぁネジが外れてると いってもいいとんでもない発想なんだけど、それにしても主人公10歳はラブコメとしての成立を阻んで余りあると思う。飽くまで個人的な感想だけど。

そんな自分に残されたこの漫画の楽しみ方は、「バトル」と「萌え」なんだけど、はっきり言って「萌え」もいまいちパっとしない所がある。とうぜん絵は可愛 いし、ビジュアル的に魅力を感じるキャラクターはたくさんいるんだけど、(飽くまで個人的には)ラブコメとして成立していないので、ある程度以上の萌えに ならない。



そんなことを考えながら5巻くらいまで読んで、自分の中では赤松漫画の最大の武器であるところの「萌え」がほとんど排除された。ただネギま!は23巻を数えた現在でも買い続けている。これは意外と「バトル」の要素が赤松作品にはまっていたからだ。

世にファンタジー系のバトル漫画は数あれど、あれほど様々なジャンルのバトル手法を体系化した漫画は他にないと思われる。

漫画世界における格闘技を体系化した作品としては、「バキ」「コータローまかりとおる」「最強の弟子ケンイチ」あたりが上げられる。たぶん各作品の作者は 格闘技が大好きで、もとよりの格闘技知識からして桁外れ。それゆえに空手、柔道、ボクシング、中国拳法といった各種格闘技を広く盛り込んだ作品を作ること ができた。

しかし同じことを、ファンタジーの世界でやったのはネギま!が初めてだと思われる。すなわち魔法、忍術、中国拳法等の体術、またドラゴンボールに代表される作品で「気」として漠然と語られてきたものを、同じ世界観に同居させる試みだ。

これには赤松健が持っているオタク的特性であるところの「探究心」と「資料好き」が、最大限に力を発揮した。単行本の巻末にある資料解説はあまりにも専門 的、学術的で漫画の資料として読むには重すぎる。おそらくそういった資料は、単行本に載っているものの何十倍、下手すれば何百倍も使われているはずだ。

以下は11巻の巻末、「気」についての記述の一部。



 中国武術において呪術的説明に活用された重要な概念の一つに<気>があり、医療気功(軟気功)に対して、武術気功(硬気功)と呼ばれる。
 すでに『易』感卦の彖伝に「柔上りて剛下り、二気感応して以て相い与す。」とあり、遅くとも春秋時代(B.C.770〜453)の終わり頃には、かなり体系的な気の概念が完成していたことが分かる。しかし、例えば、「陽変陰合。而して水火木金土を生ず。五気、順布し、四時、行る。」(『近思録』巻の一)という周敦頤(1017〜73)の言葉にあるように、気とは、本来、宇宙論上の概念であり、取り立てて武術の説明に適用されるものではなかった(勿論、その宇宙の一部たる人間にも何らかの影響があることは、常に意識されていた)。



はっきり言ってなんとなくしか意味が分からない。この解説必要なのか?と思わせるないようだけど、この意味不明の解説が、異様な説得力になっている。

これらの資料から得た知識を、なるべく矛盾せぬように緻密に組み上げて、ネギま!の世界観は作られている。とうぜん、うがってみれば矛盾点だらけなのかも しれないが、そもそも学術的・歴史的に語られる宗教や伝記を現代のファンタジーに組み込むには、矛盾点が生まれないわけがないので、そこは議論に値しない だろう。

そして赤松健のファンタジー向きのデフォルメ化された絵柄と、おそらく漫画界においてずばぬけてトップだと思われるCG技術が、この世界観を保管している。



ラブコメとしてドキドキするでもなく、特にキャラクターに肩入れして萌え萌えするでもないが、ネギま!は楽しみな連載漫画の一つになっている。おそらくネ ギま!をラブコメとして見る人もいるだろうし、ただただ萌え漫画と認識している人もいるとは思うけども、それができない自分のような人間でも楽しんで読む ことができる。

赤松健はすごいことをやっていると思う。
【漫画】嘘喰いとカイジ
現在、ヤングジャンプで連載中、迫稔雄の「嘘喰い」。カイジあたりで漫画の一ジャンルとして確立されて、デスノートで一般的になった知能バトル漫画。時期的にはデスノート以後乱発された挙句、そのほとんどが打ち切りになった同系漫画と同位置にあるも、完全に頭一つ抜きん出て面白い。

その漫画の奇異なところは、その根幹に知能バトルがあるにも関わらず、常に「暴力」がフューチャーされている点。作品内で、

「世の中は暴力を軸に回っている!」(コミックス6巻)

とはっきり公言している。知能バトルが話の中心にあるのは当然ながら、それらはすべて暴力の庇護の下にあるにすぎないと言ってしまっている。

これは実は本当に世の心理。けっきょく警察だって法律という正義を笠に着た暴力なわけで、これがないと人間社会は成立しない。



前述した福本伸行の「カイジ」の主人公カイジは、社会的弱者・社会の底辺に位置づけられながら、彼らを牛耳る社会的強者を討とうとする。その非才によって、ギャンブルという形で強者と張り合うも、彼はその背景にひとかけらの暴力も背負ってはいない。

身ひとつ、なんの根拠もなく敵に当たる姿ははっきり言って無謀そのもの。敵である会社「帝愛」が作り上げたルールの上でしか戦っていない。

「エスポワール〜スターサイドホテル」はただただ敵の手のひらの上。たとえ最後の戦いで兵藤に勝っていたとしても、カイジを含めあの場に居た帝愛外部の人間全員が殺され、あのギャンブルの存在そのものが封殺されていたはず。むしろカイジは負けて命を拾った形。

「地下強制労働〜沼」も帝愛のシステムと、兵藤がカジノの秩序に重きを置いたことで、勝ちを勝ちとして享受できたにすぎない。

「渇望の血」の麻雀勝負はさらに酷く、敵の巣である裏カジノで勝負し、帝愛の御曹司・和也がいなければ勝っても殺されていたはず。また本来敵であるはずの帝愛に助けられたことになる。

とうぜん作者はそんなことわかっていて、そんなうかつなカイジのギリギリを描こうとしている。だけど、作品の最終回でカイジが兵藤を倒しているとはとても思えない。あるとすれば、帝愛に匹敵するなんらかの巨大な権力を背景に、その代打ちとして兵藤と勝負するしかないけど、そんな展開もなさそう。



そんなところで嘘喰いは秀逸。まず「賭郎」というギャンブルを取り仕切る超法規的団体が、主人公の知能による立身を助けている。ただ主人公の目的は、(作品上明確にされているわけではないが)どうやらその賭郎を倒すことらしいので、敵のシステムの上で立ち回るという意味ではカイジと変わらないのかもしれない。

獏とカイジの相違は、現時点で自分は敵の手のひらの上であることを自覚しているか否か。獏はそれを完全に自覚した上で、今は自らの背景に金と暴力という力を負おうと立ち回っている。

キーは「屋形越え」のシステム。賭郎の会員は、その賭郎のボスと、組織まるごと賭けた勝負をする権利を持っている。問題はこのシステムがどこまで有効であるか。このシステムを利用して勝っても、勝ったことで殺されたら元も子もない。勝負の結果のいかんを問わず、暴力を持って決着がつくなら、このシステムは張子もいいところ。ただ賭郎という江戸時代から続く伝統組織の、歴史に起因したシステムであるため、組織のトップを決める絶対的な判断材料とされている可能性もある。

現在、物語は、賭郎の対抗組織「アイデアル」の登場によって、組織間抗争と、その狭間で立ち回る主人公という構図になっている。カイジが敵に勝つには、敵に匹敵する権力組織の力が必要だと書いたけど、「嘘喰い」ではその権力組織が登場したことになる。

今後は、もちろん獏が賭郎を倒すところに話が向かうはずで、そのためにはとりあえず3つのルートが見えている。

1:アイデアルと賭郎の抗争間に、獏自身が強大な暴力と金を手にして、完璧なお膳立ての上で勝負に臨む。

2:暴力という点で賭郎に及ばない状態のまま、「屋形越え」というシステムの絶対性を頼りに勝負に臨む。

3:アイデアルという対抗組織の力を背景にして、賭郎と相対す。

獏の周到さと、ここまで作品内で語られた「屋形越え」に関する記述を考えれば「2」は薄そう。一番現実的なのは「3」だが、読者的には賭郎のキャラクターが非常に魅力的なので、その敵方であるところのアイデアルを利用した主人公の勝負という展開は、いまいち煮え切らないものがあるかもしれない。「1」が一番真っ直ぐで、主人公的な正道だけど、そこまで真正面にいくとも思えない。

個人的には

4:実は賭郎のトップであるところのお屋形様と、主人公の獏はグル、もしくはなにかしらの目的が一致している。現在のお互いが睨み合う状況は全てポーズにすぎない。お屋形様はあえて獏に負け、獏が賭郎のトップに座った後に、さらなる高みに登ることを思い描いている(例えば総理大臣)。いわば今は、獏が賭郎を任せ得る存在かどうか、お屋形様が値踏みしている状態。

という予想を立てているんだけど、ちょいと飛躍しすぎか?



知能バトル漫画としては、知能バトルそのものを描くのが当然のはず、にもかかわらず、実際作品内では知能バトルと肉体のバトルが半々くらいで描かれている。このバランスが実に世の本質を突いていて秀逸。

とにかく今の成年誌では一番面白いと思う。
【映画】ハプニング
僕的に2008年予告編が超面白そう映画グランプリ最有力候補のこの映画。

監督のM・ナイト・シャマランは「シックスセンス」「サイン」なんかで有名なんだけど、この人の作品の予告編はとにかくどれもこれも面白そう。予告編っていうのはまだ観ぬ映画の未知への期待を煽るものだと思うんだけど、シャマラン監督の作品に秘められたトリックとか、未知への恐怖っていうテーマがこれにピッタリ。予告編がメチャクチャ面白そうに見える。

僕はこの予告編というものが大好きで、映画館に行った時はまず最初に予告編が始まるのをワクワクしながら待っている。例えば合コンの予告編であるところの待ち合わせが一番ワクワクするのと同じだ。合コン行ったことないけど。…。例えばソープで女の子が来る前が一番興奮するのと同じだ。ソープ行ったことないけど。…。まぁ良い例えは浮かばないけど予告編だけなら最高の映画だった。





※※※※※※※※※※※※以下ネタバレ注意※※※※※※※※※※※※





で、本編なんだけど、「ハプニング」っていうタイトル通り、内容はそのままハプニング映画。言っちゃうと「ツイスター」みたいに自然現象でキャーキャーワーワー言う感じの映画だ。

でもやっぱりシャマラン監督の作品なんで、その自然現象ってヤツがよくわからない。どうやら植物が発している"らしい"毒にやられて、人間がバシバシ自殺していく。本来、ハプニング映画なんかで人が死ぬとなると、恐怖に顔を引きつらせ絶叫して消えていくのが定石であるはず。なんだけど、この映画の死に役の人たちは、急に正気を失い、最も手近な自殺の方法を選択して絶命する。

まぁハプニング映画の"ハプニングの内容"すなわち、その映画における一種の"敵"はかなりインフレ化しているところがあって、竜巻だったり隕石だったり蜂だったり鳥だったりと完全に飽和状態だ。そこで新しいハプニング映画として「結局最後までなんなのかよくわからないもの」を"敵"にしているのがこの映画。未知が最大の恐怖というわけだ。

この"敵"の選択は実に素晴らしかったと思う。人間がそれぞれの方法で次々に自殺していく様は、ミステリアスで、非常に刺激的。最初の30分は"敵"が猛威を振るう様を観ているだけで、かなり引き込まれる。

で、途中から仲があんまりよろしくない主人公夫婦が、危機的状況の中でお互いの愛を再確認するお約束的展開に突入する。で、愛が深まったら「3ヵ月後―」とかいってエピローグに突入するお約束。さらに「危機は完全に去ったわけではない」みたいなシーンで終わるお約束。

まてまてまてまてそれでいいのかシャマラン監督。あんたの作品ってそうだっけ?他を逸脱したオチで唸らせてくれるんじゃなかったの?どうでもいいけどお前の名前は覚えにくいよシャマラン。

一番の問題は、"敵"の不気味さと、監督に対しての先入観のせいで、ハプニング映画であるにもかかわらず、ミステリーかホラーを観るような感覚に陥ってしまう点だろうか。どうしても主人公のミステリー映画的活躍、つまり謎解きに期待してしまう。まぁ若干の謎解きはあるんだけど、それは劇中のテレビやラジオが流している情報に教えられることで保管されているにすぎず、主人公大活躍という感じではない。謎解きと、それによって敵に打ち勝つという爽快感は微塵も得られない。

ともあれ、「未知への不安・恐怖」「自然界には人間の創造を絶する力がある、いつかは我々もこれに牙をむかれることになるだろう」というのがこの映画の主題のようだった。

クライマックスシーン、それまで"敵"の象徴として描かれていた風の中、お互いにいつ発症して自殺してもおかしくない状況下で歩み寄るシーンは、緊張感と夫婦愛が見事に描き出されている良い演出だと思った。"敵"の存在が未知でなければあそこまでの緊張感は出せない。

あとこの「ハプニング」っていう映画のタイトルがけっこう好き。さんざん言ったけどこの映画の"敵"は最後までなんなのかよくわからない。だからこそ「なにが起こったのか?」という問いに対しては「ハプニングです」と応えるしかない。まったく未知のものを"敵"として選んだハプニング映画のタイトルとして、完璧だと思う。簡潔で素晴らしいネーミングセンスだ。

さんざん文句も垂れたけど、けっこう面白かった。監督は掲げたテーマと演出を前提に、かなり最善に近いストーリー展開の選択をしたとは思う。"敵"の選択が突き抜けていた分、お約束的な展開が新鮮に感じられたのかもしれない。



この映画を観たことで、未知への恐怖というものを再確認することができた。最近、部屋の前においてあるゴミ袋からずっと、

カサカサカサカサカサカサカサカサ

っていう音が聞こえてくるんだけど、なんなのか分からなくて恐い。未知への恐怖だ。いや実際のところこの"敵"の正体はだいたいわかってるんだけど、とりあえず未知にしておきたい…。正体が分かった方が恐いこともある…。恐い…。



【読書】どちらかが彼女を殺した
普段から推理小説やミステリー小説をほとんど読まない。記憶力が無いので、時間をかけて読んでいると話の筋や重要な複線を忘れてしまうからだ。はっきり言ってそんな僕にとってこの小説は地獄。細かい複線や登場人物の行動を覚えていないとどうにもならない。

なぜなら、推理小説であるにもかかわらず、犯人が誰なのかが最後まで明示されていないからだ。小説に限らず推理もののキモは、主人公の謎解きであり、彼の説明によって物語に散りばめられた謎が氷解していくそのカタルシスにある。名探偵コナンでも金田一少年の事件簿でも、主人公の一番の見せ場は犯人を指名するシーンでるはずだ。しかしこの小説は必要最低限の推理をした後、読者に犯人の名前は明かされない。コナンで言うと、犯人が全身黒タイツに目だけついてるようなあの状態のまま、エンディングテーマに突入するみたいな感じだ。

で、作者である東野圭吾は「いや、これだけ書けばわかるでしょ?」みたいな感じで安楽椅子に腰掛けてブランデーとか飲みながらニヤニヤしてこちらを見下している。いや、ぜんぜん個人的なイメージなんだけど、そんな気がする。ほら、解いてみろよ、みたいな感じ。

ラーメンズの小林賢太郎がプロデュースしている演劇公演"KKP"の第4回「LENS」では、似たような演出が成されている。主人公は犯人が判るやすぐさまそれを指名、たった一点の矛盾点を提示し、あっさり犯行を認めさせてしまう。この時点で、物語後半までに散りばめられた謎は何一つ解決していない。いないにも関わらず犯人も「逮捕ですかね?」とか言っている。推理ものにおける謎解決のカタルシスを一度全て放棄している。ここで主人公と犯人以外の登場人物が、推理小説における読み手側に回る。あの謎はどうなっているんだ、その矛盾点はどうだ、といった具合に主人公にたたみかけ、やっと謎への回答が成される。

これはこれで新しい演出ではあるんだけども、この「どちらかが彼女を殺した」という小説はそのさらに上を行っている。「LENS」では主人公と他の主人公によって成された疑問と回答の交換を、全て読み手側に委ねている。読者は自らの推理と洞察によって犯人を追い詰めていかなければならない。謎が解けないと面白くないはずの推理小説に、読み手によってはまったく面白くなくなる可能性を与えていることになる。

悔しい。一回読んだだけではまったくわからなかった。どうやら推理のキーになっているらしいあのシーン、そこを読み返せば分かるだろうか、…わからない、ていうか200ページ以上の小説の中から、キーとなる一文だけを手探りで見つけるのはムリだ。だから物語の中盤あたりからもう一度読み返しましたよ。それでやっと犯人がわかった。くそっ、わかったけどものすごく時間がかかってしまった。悔しい。東野圭吾め、すごく面白かったじゃないか、それが悔しい。

悔しいので今度は登場人物の一挙手一投足を逃さないという心意気で、東野圭吾の本格推理小説第二段であるところの「誰かが彼を殺した」を読んだ。わからない…。悔しい…。何回か読み返してやっと分かった。あぁもう空の上の東野圭吾が美女をはべらせて一万円札の風呂でドンペリのシャワーを浴びながら見下している。雑誌の裏の風水グッズの広告みたいになってる。なんて悪趣味な野郎だ。(イメージです。)

今度はわりと最近出た第三弾「私が彼を殺した」を読もう、敗色濃厚だが…。
【映画】崖の上のポニョ
とりあえず観てみました、みたいな感じ。なんか世間の波に流されとけばいいじゃない?友達とプール行っても、皆が競争とかしてるのを横目に流れるプールでずっと流されてるみたいな。友達いないけど。

あれだけの話題作なので、前評判や感想が嫌でも入ってくる。そういったものを繋ぎ合わせて、映画を見る前からなんとなく自分の中でポニョのストーリーを作り上げていた。以下がその脳内ポニョストーリー。





※※※※※※※※※※※※以下ネタバレ注意※※※※※※※※※※※※





○魚のポニョ、なんか遊んでてビン詰めに

○宗介、ビン詰めポニョを発見、同時に転んでケガをする

○ビンから開放されたポニョは宗介の血をすする(肉食のため)

○宗介の血を生贄に魔法の力が働いてポニョ人間になる

○ポニョの歌に合わせて仲良く遊ぶ2人

○しかし宗介が別の女の子と仲良くしている姿を見てポニョ大嫉妬

○強大な魔力によって天変地異が巻き起こる

○これに乗じて大魔王フジモトがかねてからの野望である世界征服へと乗り出す

○立ち上がるポニョと宗介

○大いに苦戦するも大魔王フジモトを打ち倒す

○しかし魔力を使いすぎたためポニョは泡になって消えかけてしまう

○これを止めるには宗介のキスが必要

○ただその時、宗介はポニョに永遠の愛を誓わなくてはならない

○迷わずポニョにキスをする宗介

○めでたしめでたし―


というわけで、まぁあながち間違ってなかったか?強いて間違っている箇所を挙げるとすれば大魔王フジモトあたりだろうか…。でも「人間の時代はお終いだ!ふふふ!」みたいなこと言ってたからなぁ。まぁフジモトはポニョのお父さんだったわけなんだけども、他にも細かいところで勘違いがたくさんあった。最も重要なのは「魚のポニョ」という箇所。ポニョは何かのきっかけで魔力を得た、ただの魚だと思っていたんだけど、実は元々人魚で、かなりの魔力をその身に宿していたらしい。

元々の魔力に、人間の血とフジモトが蓄えていた魔法の水を加えて強大な力を得てしまったポニョが、その力を無自覚に暴走させてしまい、天変地異が巻き起こる。これを止めるには、ポニョから魔力を取り上げてしまう、すなわち完全な人間にしてしまうしかない。それにはポニョの本来の姿を知りながら、人間であるポニョを受け入れてくれる者が必要で、それはポニョが恋する宗介でしか成し得ない…。というのがストーリーの本筋で、宗介がポニョを受け入れることで事態は収束する。

主人公の宗介はとにかくいい子。頭も良くて妙に大人びた言葉が会話の端々にみられる。純心無垢であるがゆえに、ポニョを受け入れることになんの躊躇もなかった。少年の純粋が世界を救った、というのが結末だ。

しかし、宗介はなんの決断もしていない。ただポニョという存在が好き、ただ好きだという意思表示をしただけである。もっと言えば宗介はポニョに恋をしていたわけではない。ポニョが宗介に抱いていたものは恋心に限りなく近かったが、宗介にそれらしい感情があったとは思えない。人間になる前のポニョ、つまりただの魚に向かって宗介が言った「好き」という言葉、これに込められた感情は明らかに恋心ではない。ラストシーンで宗介がポニョに対して言った「好き」も、これと同じ感情から発した言葉だ。

そんな宗介とは対照的に、父フジモトやポニョの母は、娘を嫁に出す気持ちでポニョを見送っている。どうも宗介の純粋さにつけこんで、無自覚のうちに一生の決断をさせたように思えてしまう。もちろんこれは極端に悪い言い方で、そうすることでしか事態の収束は望めなかったのだが、そういった側面が無いとは言い切れない。宗介の母親が、クライマックス手前で見せた物憂げな表情は、息子に責任を負わせることへの悲しみの表れだ。

事態の収束のため、無自覚の子供達に責任をゆだねるしかない、というのはどうもエヴァンゲリオンに通じるものがある。エヴァンゲリオンは選ばれた子供にしか操ることができない兵器だ。大人たちは子供が戦っている様子をモニタ越しに見ているだけである。ここでは大人に利用される子供達という構図が強く印象づけられているが、本質的にはポニョも変わらない。ただ「純粋な子供が利用される」よりも「子供の純粋さが世界を救う」ということを強く描き出しているだけだ。

映画を観た子供は、宗介とポニョの活躍する姿を、純粋に楽しむことができただろう。大人の信頼を受け、子供だけで冒険に漕ぎ出す姿を見て、素直に喜びを感じたと思う。ただその子供と一緒に映画を見ていた親はどうだろう。少し複雑な気持ちになったのではないか─。

少なくとも僕はポニョと宗介が、あの後どうなったのか、心配したい気持ちの方が強かった。


あ、あと、やたらたくさんいたポニョの妹達、世界を崩壊させかけたポニョのような魔力を持つ可能性がある妹があんなにいるとは…、大魔王フジモトの世界征服は案外成し得るのではないか…。恐ろしい物語だった…。
【映画】雨に唄えば
言わずと知れたハリウッドミュージカル映画の金字塔。

という話をどこだかで聞いたので観てみたんだけども、僕はこの「言わずと知れた」という冠のついたものを知らないことが非常に多い。安易には使って欲しくない言葉だ。言わなくても知ってるはずのものを知らなかった場合、非常に不安になる。

「言わずと知れたペットの金字塔、ネコ!」

みたいな使い方をしてくれれば、まぁ言わなくてもネコくらい誰だってわかるわな、っていうところなんだけれど、これに及ばないまでも、「言わずと知れた」を使うときは無知な人間にもう少し気を使ってほしいと思う。



といったところで映画の感想なんだけれども、実際のところ断片的ではあるけれどもやっぱりちゃんと知ってた。冒頭をあんな書き出しにしておいてなんなんだけども、さすが金字塔とまで言われる作品。雨の中での有名なミュージカルシーンはちゃんと知ってるし、歌も聴いたことがある。

ストーリーはありがちと言えばありがちで、王道的な部分もあるのだけれども、映画作りの映画っていうメタな部分がミュージカルという形式にズバリといった感じで、わざとらしさを感じさせない作りになっている。いやぁすごいなぁ、と素直に思う。

なにより感じ入ったのは脇役というものの重要性。主人公ドンの古くからの相棒で、一番の理解者であるところのコズモが実にいい味を出している。登場シーンから道化っぽい位置づけがなされている割りに、物語における重要な選択は、多くをこのコズモが行っていたりする。当然、物語の本線は主人公の恋愛と出世譚ではあるんだけども、脇役の活躍には、主人公のそれとは別の爽快感がある。

むしろロマンスとか社交性とか、そういったものとかけ離れたところにいる僕なんかにとっては、スターである主人公は最も感情移入しずらいキャラクターだったりする。死ね。死ねばいい。スターなんて死ねばいいんだ。―くらい思っている。主人公が根っからのヒーローだったりスターである場合は、彼らの物語を客観的に眺めている脇役にこそ感情移入できるものなのかもしれない。

だからこそラストシーンでドンとコズミと彼らが所属する映画会社の経営者が、舞台袖で円陣を組み計略を打つあたりでは、その輪に自らも参加しているかのような錯覚に陥ることができる。その計略というのがオチなんだけど、そのオチは途中で十中八九わかってしまう。しかしわかってしまうから計略を仕掛ける側の感情で見ていられる。この感情移入というところで脇役のコズミという存在が非常に重要だった。

ラストシーン手前の一番派手なミュージカルシーンは、はっきり言ってストーリーにはあまり関係ない。ちょっと蛇足的かなと思う。ただこの「雨に唄えば」放映当時の映画がエンターテイメントの集大成であったことを強く意識させるシーンではあった。演出といい、ダンスといい、劇中劇として完成されたものだとは思った。たぶんどうしてもやりたかったんだろうなー。監督であり主演であるところのジーン・ケリーは狂気的なまでに芸で魅せるということに注力したらしいので。

このシーンをやるならラストシーンにもっと尺を割いてよかったのではないかと思う。キャシーの歌に合わせて踊って欲しかった。ドンとコズミには下積み時代から磨いてきたタップダンスという武器があるにもかかわらず、少なくとも劇中の描写を見る限り、彼らの映画作りそのものには活されていない。この伏線を活かして、試写会という公の場でアドリブのショーを展開してもよかったのではないか、と。観衆は映画スターであるドンと、ピアノ演奏家であるはずのコズミの新たな才能に舌を巻く。これでラストシーンの爽快感は格段に増すんじゃないかと思うんだけど…。

と、思ったら、実際ケリーはラストをコズミ役のオコナーと共演するダンシング・ナンバーにするつもりだったらしい。撮影が延びたため途中でオコナーの契約が切れてしまったんだとか…。あぁそっちを見てみたかったと少し残念な気持ち。

さらにものすごく個人的で、穿った感想を述べるならば、物語後半から完全に悪者になっていたリナが少し可哀そう。リナは主人公のドンへの愛と、自らの名声に執着するあまりに、かなり傍若無人な行動をするんだけど、その気持ちがわからなくもなくて、ラストシーンで観客の嘲笑を浴びて舞台を降りた彼女が可哀そうでならなかった。「分別を忘れないような恋は、そもそも恋ではない。」っていう言葉があるけども、人間誰しもある程度の執着心を持っているわけで、それが汚い形で露呈することも少なからずある。そこに恋愛が絡んできた場合、少々度を越えた行動をとっても仕方ないと思うんだけど…。そんな考えが若干ではあるが、結末の爽快感に水をさした。飽くまでも個人的な感想ではあるが。

ともあれそんな細かいところを除けば、最初から最後まで楽しめる、愉快にして爽快な映画だった。



さすが言わずと知れた大衆娯楽であるところの「映画」、の中で金字塔と言われる作品であります。(気を使った言い方。)